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2016年12月23日(金)

時効制度の趣旨

                
                    愛知学院大学教授 (刑事法) 原田 保

 周知されていないように見受けられるので、述べておく。司法試験では、たぶん要らない。

 「時効」という言葉は「公訴時効」の意味で使用されることが多いようだが、刑事では公訴時効の他に刑の時効があり、民法その他の法分野にも時効制度がある。また、日本独自の制度だと信じている人に遭遇したことがあるが、地球上で普遍的な制度である。
 一言で説明すると、「長期間継続した事実状態を法的に固定する」のが時効制度である。「時の重み」に基づく制度である。本来の権利義務が実現されないまま長期間継続した事実状態を法的に固定するべく、存在していた権利を失わせたり (消滅時効)、存在しなかった権利を作ったり (取得時効) するのである。刑事では、訴追・刑執行が行われない事実状態が長期間継続したら、国家刑罰権を消滅させて訴追・刑執行を法的に不可能にするのである。

 このような制度が何故あるのか。この点について、誤解や不十分な説明が見受けられる。

 長期間の経過による証拠散逸が指摘される。経験則上あり得る事態だが、証拠がなければ権利義務の実現は裁判上不可能だから、時効を俟つまでもない。逆に、証拠があっても時効が成立すれば権利義務は消滅するのだから、これは証拠如何の問題ではない。
 権利の上に眠る者は保護されないという言葉もある。これも、妥当する事案が少なからず想定できる。しかし、権利義務実現の努力を続けていても、中断・停止の事由がなければ時効により実現不可能になるのだから、眠っていたことは必ずしも理由にならない。
 このように、証拠散逸も権利放置も、そのような場合がままあるという程度のものであって、制度自体の十分な説明ではない。公訴時効完成を迎えた犯罪者は長期間の逃亡生活によって十分に罰せられているとの言辞に至っては、凡そ説明にならない論外の妄説である。

 制度の趣旨・理由は、制度の内容と合致していなければならない。時効期間は権利義務の内容や刑の軽重によって区別されている。このような規定から、権利義務の内容や刑の軽重とそれが実現されないまま経過した期間の長短との比較衡量が看取される。
 法的な権利義務は本来当然に実現されるべきである。しかし、本来の権利義務が実現されないままの不当な状態でも、それが長期間継続すると、人々はその事実状態を前提として行動し、その事実状態を前提として他の人々と様々な関係を取り結ぶ。そのような状況で本来の権利義務を実現しようとすると、長期間継続した事実状態に基づいて形成された現存の人間関係・生活状態を、突如として破壊することになる。
 それでも本来の権利義務を実現するべきだ、ということは、勿論ある。身内から犯罪者が出て一家全員破滅という事態は珍しくもない。しかし、事件直後ではなく長期間経過後になると、今更そこまでするべきではない、と考えられる場合もあり得る。この考えを是認するなら、「現存の諸関係を破壊してでも実現するべき権利義務なのか」という判断を要することになる。迅速処理を要する場面では、権利が比較的短期間で時効により消滅する。重い罪・重い刑なら現存の諸関係を破壊することになっても訴追・執行しなければならないが、軽い罪・軽い刑なら現存の諸関係の方を優先させて訴追・執行を断念する。権利義務の重みと時の重みとの比較衡量である。この比較衡量に基づいて社会的安定を図るのが、時効制度なのである。

 勿論、法律上の諸制度を批判することは自由であり、時効制度廃止論も立法論として成立可能である。しかし、制度の趣旨に関する誤解があると、適切な議論にならない。

 刑事において、「被害者や遺族に時効はない」との言葉がしばしば発せられる。それは正しい。無関係な他人や加害者・債務者は忘れても、被害者・債権者やその遺族は忘れないことが多い。
 しかし、これを時効制度批判の根拠にすると、論点齟齬に陥る。このブログで過去に述べたように、刑罰は被害者や遺族のための復讐代行制度ではない。被害者の権利として犯人処罰を論じると、真に必要な被害者支援を失念させて犯人死亡事案の被害者を無視するだけでなく、刑事法の歪曲をも生じさせる。被害者や遺族の意向を根拠とする公訴時効廃止論も、その一例である。
 犯人が如何に悪辣な行為をしたか、被害者が如何に悲惨な目に遭ったか、という事実を公的に確認することは、被害者支援の一環として重要事項である。刑事被告事件裁判が行われないためにこのような公的確認が行われないという状態は、被害者支援に欠ける。しかし、それは公訴時効完成事案だけではない。公訴時効未完成でも、犯人が死亡すれば刑事被告事件判決は宣告されないから、犯罪や被害の内容・程度を公的に確認する機会は失われる。この点で、犯人死亡事案の被害者は公訴時効完成事案の被害者と同じ状態にある。
 公訴時効廃止をかかる状態の解消手段と位置付ける主張は、同じ状態にある犯人死亡事案の被害者を無視している。被害者支援策は、公訴時効完成事案にも犯人死亡事案にも対応できるものでなければならない。
 では、公訴時効廃止と共に、犯人死亡事案でも刑事被告事件裁判を可能にするべきなのか。再審は被告人が死亡しても遂行されるが、それは誤って犯人とされた人の雪冤を目的とする制度だからである。通常手続でそのような文字通りの「被告人抜き裁判」は刑事被告事件裁判にならない。刑事被告事件裁判は「この被告人をどうするべきか」を論題とする制度だから、論題たる被告人がいなければ無意味であると共に、被害者を少なくとも直接的には論題とするものではない。だから、「この被害者のためにどうするべきか」を論題とするなら、刑事被告事件裁判とは別の制度として、純粋に被害者支援のための制度を構築するべきなのである。

 そして、公訴時効を廃止しても、犯人処罰は保証されない。15年間捜査して公訴提起できなかった事件が更に30年を経て被疑者・証拠の確保に至ることは、ほぼ期待不可能である。150年を経て奇跡的に犯人が特定できても、終局は被疑者死亡による不起訴である。被疑事件終局がなければ永久に被疑事件であり続けるから、200年前の殺人事件に関する捜査もあり得ることになる。しかし、関係者全員死亡が明白な昔の事件を被疑事件として捜査することは、現実に行われるとは考え難く、刑事司法の趣旨から外れる。故に、被疑事件を閉じることなく永久に放置するか、人間の生命の限界を超えた頃に氏名不詳被疑者死亡と判断して終局にするか、どちらかしかない。いずれにしても刑事司法完遂にならない。例えば崇峻天皇暗殺事件の真相解明は、今上天皇陛下の御要望があっても、刑事司法ではなく歴史学に適する事項である。
 刑事司法の目標が犯人処罰である限り、公訴時効の延長は制度趣旨の範囲に留まり得るが、廃止は無意味・矛盾である。詳論は省略するが、公訴時効廃止は刑事司法完遂よりも「永久に許さない」旨の態度表明という政治的色彩の方が濃い。

 公訴時効に限らず、時効制度をどうするかは、本来の権利義務を長期間経過後でも実現できるようにすることが、誰に如何なる利益をもたらすか、誰に如何なる損失をもたらすか、という点を熟慮して決するべき事柄である。

Posted by AGU-LS at 16時57分

2016年11月15日(火)

死刑および終身刑に関する所見

死刑および終身刑に関する所見
                  愛知学院大学教授 (刑事法) 原田 保

 各主張の論理的問題について述べる。出典の個別引用は略すが、本学修士論文に同旨記述があることを摘示しておく。

1 死刑
 死刑執行後に冤罪が判明しても取り返しがつかないと主張されるが、他の刑罰なら取り返しがつくのか? 懲役でも、雪冤が死去直前や死後になった事例は過去にあったし、今後もあり得る。奪われてしまった自由な時間は絶対に取り返せない。罰金でも、別の支払ができなくなったことによる回復不可能な被害があり得る。被害の内容・程度は事案により異なるが、冤罪は常に取り返しのつかない被害を与えるのであって、死刑を廃止してもこの事実は消滅しない。
 故に、死刑廃止を冤罪対策とするのは論点齟齬であり、冤罪被害者支援の充実を妨げて死刑以外の冤罪被害者を無視する危険を持つ。これは犯人処罰を被害者保護手段にする見解と同様であり、正攻法ではない。
 人の判断に過誤皆無ということは絶対にあり得ないから、刑罰制度がある限り冤罪のリスクは必然的に付随する。故に、冤罪を確実に防止する方法は刑罰制度の全面廃止である。刑罰制度を維持するなら、不可避的リスクへの対処として、冤罪被害者や遺族への支援が必須事項なのである。雪冤後の対処を欠いたままでは刑事法として完結しない。絶望的に貧弱な現状からの脱却こそが冤罪対策である。
 更に、冤罪で死刑を執行される無辜の人が1人たりともあってはならないという主張は美しいが、自動車事故で死亡する無辜の人はどれだけあっても構わないのか? 日本において、冤罪死刑執行の実例は証明されていない (たぶんある) が、自動車事故では毎年数千人の人が死亡している。実例証明のない冤罪死刑執行を防ぐために死刑廃止を主張するなら、毎年数千人の人が確実に死亡する自動車事故を防ぐために自動車廃止を主張しなければ、一貫性を欠く。自動車が事故防止努力を以て是認できるなら、死刑も冤罪防止努力を以て是認されなければならない。
 反論として、自動車は毎年数千人の犠牲者に値する社会的有用性を持つ (運良く生きている人には便利である) が、死刑は犯罪抑止効果が証明されていないから冤罪のリスクに値する有用性を持たない、と主張されるかもしれない。これも、死刑廃止の根拠として掲げられるが、論理的問題を内包している。
 死刑以外の刑罰なら抑止効果があるのか? 「殺す」と威嚇されても犯罪を思い留まらない人が、「拘束して働かせる」とか「金を取る」とかいった威嚇に直面すると犯罪を思い留まるのか? 殺人罪を犯してしまった人には、死刑だけでなく、同罪に規定された懲役も、抑止効果を発揮できなかったのである。抑止効果不存在を理由とする廃止の主張を死刑だけに向けるのは、論理的整合性を欠く。
 このように、死刑廃止の根拠とされる事情は他の刑罰にも妥当する。故に、刑罰制度全面廃止の第一歩としての死刑廃止なら論理的に成立し得るとしても、死刑だけを廃止して他の刑罰を存置する主張なら、冤罪のリスクも抑止効果の不存在も根拠となり得ない。
 死刑存置論も、被害感情を根拠にすると、論点齟齬に陥る。刑罰は被害者や遺族のための復讐代行制度ではない。殺人犯人は、被害者が反社会的行動に終始した天涯孤独の身元不明者でも、死刑等の刑罰を受けなければならない。被害感情は量刑事情の一部でしかない。
 私見によれば、「生き続けることが許されないほど重大な罪」というものがあるか否か、という問題こそが死刑存廃の論点である。駄文筆者自身はそのような罪もあると考えているが、異なる見解を批判する心算はない。どう考えるかという問題であって、正解はない。どちらが多数派であるかを勘案するとしても、政策責任者が決断するべき事柄である。

2 終身刑
 仮釈放なしの終身刑なるものが提案されている。死刑廃止論者からは代替策としてであり、被害者側からは犯人の社会復帰を絶対に許さないという趣旨であるが、どちらにしても多大な疑問がある。
 まず、制度上の位置付けがおかしい。「新たな刑種」として提案されているようだが、仮釈放を不可能にする主張は「仮釈放制度の変更」として議論するべきである。
 仮釈放の可否は悔悛の状を更生保護委員会が判断するものである。刑事責任に関する司法判断が示された後に行政権が服役中の行状に基づいて行う社会復帰適否の判断を、予め司法判断によって禁止できるようにするというのが、提案の内容である。故に、司法権と行政権との関係を含めた議論を要する。仮釈放への期待を前提として受刑者処遇を行う行刑現場では、その期待を持てない受刑者の処遇が深刻な問題になる。
 そして、恩赦をどうするのかも議論を要する。恩赦制度が現状のままなら、仮釈放を不可能にしても恩赦による釈放の可能性が残る。それは終身刑の趣旨に反するとして恩赦の可能性も否定するなら、内閣の専権事項とされる措置を予め司法判断によって禁止する制度の可否という憲法問題が生じる。
 また、些末的と評されるかもしれないが、「終身刑」という「名称」にも問題がある。それは、仮釈放不可の自由刑は仮釈放可能な自由刑より内容的に重い筈であるのに、語義としては無期の方が終身より重いという齟齬である。
 学校の懲戒処分として行われる無期停学は停学期間終了を爾後に判断する不定期停学であるが、刑法に規定された無期刑は語義通りに期限が無いのであって、刑期は永久である。仮釈放されても、恩赦がない限り生涯仮釈放のまま仮釈放取消の威嚇に晒され続ける。受刑者が死亡すれば執行不能になるが、それで刑期が終わる訳ではない。これに対して、終身刑なら刑期は死亡の時点で終わる。これが「終身」の語義である。つまり、終身刑という名称で提案されている制度は、不定期の有期刑なのである。死亡を以て刑期が終わる刑罰が死亡後も永久に刑期が続く刑罰より重いというのは、不合理である。終身刑に刑期終了はないと主張するなら、語義逸脱・誤用である。
 更に、「無期刑の実質刑期は10年である」といった誤解に基づく議論があってはならない。仮釈放された無期刑受刑者は25年以上服役している。有期刑の仮釈放は刑期終了直前が普通であり、余程の模範囚でも刑期の7割以上を服役した後である。無期刑は10年、有期刑は刑期の3分の1、というのが法律上の必要服役期間だが、実際にはその2倍以上の服役を経ている。そもそも、仮釈放は裁量事項であって、保証されている訳ではない。受刑者の半数近くは最後まで仮釈放されず、無期刑の仮釈放は年間1桁に留まる。服役中のまま生涯を終える受刑者は毎年3桁に上る。政策判断については論じないが、議論の前提として実態を正しく認識しておくべきである。

Posted by AGU-LS at 14時52分

2016年08月19日(金)

「ノン・アルコール」「0.00%」の飲酒運転

「ノン・アルコール」「0.00%」の飲酒運転
          愛知学院大学法科大学院教授 (刑事法) 原田 保

 私の知る限り、「ノン・アルコール」と称する飲料はアルコールを含有している。数値表示も、例えばアルコール含有0.0499999%を小数点以下第2位で四捨五入すれば「0.00%」になる。どちらも真実の「非アルコール」「0」ではない。実質的に虚偽表示だと私は思う。
 この種の飲料について「飲んで自動車を運転しても違反にならない」と思っている人が少なからずいるようだが、間違っている。これも道路交通法に違反する違法行為である。
 道路交通法は「酒気を帯びて車両等を運転してはならない」と規定している。如何に微量であっても、アルコールの影響が自覚されていなくても、体内にアルコールを入れれば直ちに酒気帯び状態であり、そのような状態での運転はこの禁止規定に抵触する。明らかに法律の規定に違反する違法行為である。
 しかし、処罰対象はこの違法行為全部ではなく「酒に酔った状態」および「政令で定める基準以上にアルコールを保有する状態」の場合だけである。禁止対象と処罰対象とは一致しない。微量でも体内にアルコールを入れれば常に禁止違反・違法であるが、処罰は体内アルコール量が多い場合だけにする、という二重構造になっているのである。
 一般論としても、法的に禁止された違法行為の全部が処罰対象とされる訳ではない。違法行為だが処罰対象ではないというものは沢山あり、微量の飲酒運転もその一例である。「処罰されない=やってもいい」という判断はままあるが、これは誤解であり、処罰されないからといって許容されている訳では決してない。微量の故に処罰基準に該当しない場合でも、法律で禁止された違法行為であることに変わりはない。
 念のために更に言えば、身体のアルコール処理能力には個人差や変動があるから、「ノン・アルコール」「0.00%」なら処罰基準に該当しないという絶対的保証もない。処罰基準に該当しないことが多いというだけのことで、量や体質・体調の如何によっては処罰基準に該当してしまうこともあり得る。このような場合には故意の存否が問題になるが、ここでは立ち入らない。
 このようにノン・アルコールや0.00%の飲料を飲んで運転することは常に違法であるから、かかる飲料の製造・提供は客観的にこの違法行為に対する教唆・幇助の結果を生じる。共犯論は省略するが、この種の飲料に「アルコール入り」「飲んで運転するな」「未成年者は飲むな」という趣旨の表示は、ないこともあり、あっても大抵は目立たず判りにくく、飲酒の害を真摯に防止する意思があるとは認め難い。
 法律で禁止された飲酒運転に寛容な態度を執り、嫌忌する人を排斥する。他人に飲酒を強要し、拒絶する人を非難する。このような言動は珍しくない。私は法学研究55巻3・4号264頁註33で批判的に実例を挙げ、たまたま接した www.pixiv.net/novel/show.php?id=150702 にも同旨の記述があるが、これは異端なのか? 飲酒運転に寛容な人は、同程度に飲酒した医師による手術を躊躇なく受けるのか?
 主流派の意向と異なっていても、飲酒運転やアルコール・ハラスメントを否定的に評価するこの国の法規範に私は賛同する。酒・アルコールを明示する飲料だけでなく、ノン・アルコールや0.00%の飲料も、運転と結合すれば違法である。違法である限り、処罰対象外でもやってはいけない。「処罰されない飲酒運転」を意図すること自体が法規範への敵対である。断固として阻止されるべきだと私は思う。異端であり続けても、私が見解を変えることは絶対にない。

Posted by AGU-LS at 08時52分

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