ホームページやブログに関するご意見・感想などございましたら、 法務研究科のメールアドレス:aguls@dpc.agu.ac.jpまでお願いします。

先月 先月

2017年9月

来月 来月


1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30
2017年03月17日(金)

爆発物所持罪の起訴猶予および刑免除

爆発物所持罪の起訴猶予および刑免除
                      愛知学院大学教授 (刑事法) 原田 保

[序]
 中日新聞平29・1・11朝刊30面に、爆発物所持罪の不起訴処分が報じられ、刑事法研究者および公共政策研究者の各論評が掲載されていた。これに関して、論点看過や論点齟齬に陥ることのないよう、若干の解説を行う。刑事法に関する理解の深化に役立てば光栄である。
 新聞記事によれば、爆発物所持罪発覚の経緯につき、検察官は自首に該当すると判断した由である。議論の余地はあるが、この点には立ち入らない。不起訴の理由は明記されていないが、起訴猶予だと推測される。以下、自首・起訴猶予を前提として述べる。
 また、報道が発言の一部抜粋であることによって趣旨の正確な表現にならないこともある。この点を留保して、新聞記事に基づいて述べる。

[爆発物取締罰則]
 本件で問題となった爆発物取締罰則 (明治17年太政官布告32号)、略して「爆取 (ばくとり)」は、大日本帝国憲法による帝国議会の発足に先立つ法令である。自由民権運動の一部が激化した爆弾テロ事件を契機に、当時の刑法(明治13年太政官布告36号、旧刑法)を補充する特別法として制定された。制定経緯は「70年闘争」の頃の火炎瓶処罰法と類似する。古いという理由だけで「時代遅れ」「現状不適合」と評するのは、予断・偏見でしかない。内容・趣旨を正確に理解して論じるべきである。

[総則の自首と各則の自首との相違]
 爆取11条は、爆発物使用の予備陰謀を行った者が実行着手前に自首して危害に至らなかった場合の必要的刑免除を規定している。内乱予備罪等の暴動前自首に関する現行刑法 (明治40年法律45号) 80条も同様であり、同法42条が自首を裁量的刑減軽事由としていることと比べて優遇の程度が高い。刑法総則で全犯罪を対象として犯罪完遂・実害発生の後でも自首を優遇する理由は主として捜査の容易化に貢献する点にあり、爆取や刑法各則の予備段階自首に対する刑免除は予測される爾後の基本犯実行の防止を主目的とする。詳細は後述するが、減軽・免除という程度差の前に、趣旨の相違があることを看過してはならない。

[起訴猶予の当否]
 本件における現行法運用上の問題は、必要的刑免除事由に該当する事案の処理方法である。自首した犯人は犯罪事実を争わないとしても、裁量的刑免除事案なら刑宣告か刑免除かが争点となり得るが、必要的刑免除事案では量刑も争点にならない。起訴して犯罪事実を立証しても、検察官の求刑意見や裁判所の量刑判断の余地はなく、判決は必ず刑免除である。そのような起訴は無駄だ、という見解もあり得る。
 しかし、刑免除も有罪判決であり、所謂前科になる。刑免除の前科による不利益の程度は刑宣告の前科よりも著しく低いが、有罪者と認定して前科を付与すること自体に違いはない。つまり、爆取11条の要件が充足されているなら、有罪認定・刑免除を宣告して軽微な前科を付与することが、同条の趣旨である。逆に言えば、爆取11条の要件が充足されている場合に同条の効果を発生させない措置は、同条の趣旨に属さない。
 本件起訴猶予は適用可能な爆取11条を敢えて不適用とする措置であり、これは刑事訴訟法248条に基づく検察官の訴追裁量権行使である。その際に、爆取11条は起訴した場合の効果として不起訴との比較衡量に供されるのであって、爆取11条が起訴猶予を導く訳ではない。
 このように、本件起訴猶予の当否は、爆取11条に規定された自首による刑免除の趣旨ではなく、刑事訴訟法248条に規定された訴追裁量の趣旨に則しているか否か、という問題である。判断事項は訴追の要否、即ち刑宣告だけでなく刑免除も含めて、有罪判決を求める訴訟行為の要否である。必要的刑免除事案でも、「刑宣告があり得ないから無駄だ」という判断ではなく、「刑免除による軽微な前科の付与すら要らない」という判断が、刑事訴訟法248条に規定された犯人の性格や犯罪の軽重といった事件の具体的諸事情から合理的に導かれるか否か、という問題である。
 駄文筆者は本件起訴猶予の具体的理由に関する情報を得ていないので確定的な評価を示すことができないが、事案毎の判断であるから、少なくとも建前としては、必要的刑免除事案の起訴猶予が常に直ちに是認される訳ではない。

[刑免除の当否]
 これに対して、本件行為者を処罰するべきだという主張は、現行法上不可能な刑宣告の主張であり、爆取11条削除という法改正の主張であると認められる。故に、主張の相手方は国会であり、現行法に基づく検察官の措置への批判にはなり得ない。
 この点を検討する際には、犯罪が或る程度遂行されると危険拡大・実害発生が現実的に危惧されることを前提としなければならない。警察官が現認すれば制止措置を講じる筈だが、未発覚なら危険拡大・実害発生の防止は専ら犯人自身の決意による犯行中止に期待する他ない。この状況を前提とすると、危険拡大・実害発生を防止するために国が執り得る唯一の措置は、犯行中止決意の動機付けとなり得る事柄を犯人に提示することである。
 犯人は現段階で成立している罪の刑を受けるべき立場にあるが、例えば予備罪→未遂罪→既遂罪というように、次段階に進んだら現段階よりも重い罪・重い刑になる。これが次段階に進むことなく現段階で犯行中止を決意する動機付けとなることもある。しかし、既に犯罪を或る程度遂行した犯人には、少なくともその限度で刑の一般予防効果が発揮されなかったのであるから、未だ犯罪を全く行っていない人と同程度の一般予防効果は期待困難である。現段階の罪に対する刑を免れるために証拠隠滅等の目的で更なる罪を犯すこともある。故に、爾後のより重い刑による威嚇だけでは足らないことがままある。そして、危険拡大・実害発生が切迫すればするだけ一層、また、次段階犯罪が重大なものであればあるだけ一層、今すぐ止めてもらいたいという政策的要求は増大する。
 このような事態への対応として、現段階で自発的に止めたら強制的に止めさせられた場合よりも優遇するという「飴」を提示する制度が追加される。次段階に進んだら現段階よりも重く罰するという「鞭」だけでは足らない場合に、犯行中止決意の動機付けを強化するべく、現段階で止めた場合と次段階に進んだ場合との差を拡大するのである。刑罰制度の中で提示できる「飴」は、現段階で成立している罪に対する刑の減免である。その際に、次段階犯罪の防止が現段階犯罪に対する刑の減免に値するか否か、という比較衡量が行われる。
 現行刑法は、実害発生の危険が予備段階よりも切迫した実行段階での任意中止につき、43条但書に必要的刑減免を規定している。予備段階については、237条の強盗予備罪に刑減免規定はないが、201条の殺人予備罪には裁量的刑免除規定がある。強盗罪よりも殺人罪の方が重大だという判断に基づく立法である。爆取11条の必要的刑免除規定は、爆発物使用罪が更に重大であるが故の立法として、その後に制定された現行刑法との整合性も認め得る。爆発物を軽視した訳ではなく、逆に、極めて重大だと判断したからこそ、危害防止手段として規定したのである。
 昭和39年法律124号の刑法改正は、身代金誘拐罪 (225条の2) を営利誘拐罪 (225条) から分離して重罰化すると共に、被害者解放による必要的刑減軽 (228条の2) も規定した。このような立法例を失念してはならない。明治時代よりも危険な物質が容易に製造できるようになったなら、それは製造所持罪や使用罪に明治時代よりも重い法定刑を規定する理由になり得る。しかし、爆発物の危険性を理由とする刑免除が危険性増大を理由として直ちに不適切になることは、論理的にあり得ない。予測される爾後の危害が更に深刻化したことから、危害防止手段たる「飴」の必要性が増大した、という結論を導くこともできる。

[結]
 論評が適切でも不適切でも、現行法運用に関する論評と立法政策に関する論評とを並列対置すると、論点齟齬に陥って適切な議論ができなくなる虞がある。法を学んでいる者にとっては自明の区別だが、世間では解釈論と立法論との混同が珍しくない。留意を要するところである。

Posted by AGU-LS at 17時00分

2017年02月28日(火)

言葉・文化 ⑵

言葉・文化 ⑵
 約5年前に書いたブログの続きを書く。生きていればまだ続けるかもしれない。
                      愛知学院大学教授 (刑事法) 原田 保

・直葬
 「ちょくそう」と読んで、人が死亡した場合に葬儀を行うことなく火葬場に直行して死体を焼く方法を指す言葉として使用例がある。この言葉に対する批判である。宗教法学会で某教授から聞いた話だが、駄文筆者も賛同するので、紹介しておく。
 批判の理由は、同じ文字で「じきそう」と読んで意味の異なる言葉が昔から使用されていることである。「じきそう」とは、古代墳墓で石室を設けることなく棺を土中に直接埋める方法であり、儀式の有無とは関係ない。今日まだ一部地域に残る土葬も、墳墓内で棺の周囲に空間がない点では「じきそう」であると言える。
 発音が異なっていても、同じ文字に異なる意味を持たせることは、可能な限り回避するべきである。「ちょくそう」という言葉を使用している人々が「じきそう」という言葉の存在を知っているのか否か、駄文筆者には判らないが、いずれにしても、「じきそう」という言葉が昔から使用されてきた実績があるのだから、新参者の「ちょくそう」は遠慮するべきである。
 儀式なしの葬送については「略式葬」と呼ぶべきだ、というのが前記教授の所説であり、駄文筆者はこれにも賛同する。

・確信犯
 司法試験で出題されることはないだろうが、刑法の話である。正確に理解されていない様子が見受けられるので、述べておく。
 過日に某TV番組で、
A 自分の行為が正しいと確信している
B 自分の行為が犯罪だと確信している
という選択肢で、どちらが確信犯の正しい定義か?と質問していた。番組ではAが正解だとされていたが、不正確である。
 また、中日新聞平28・9・22朝刊29面で文化庁による国語関係世論調査結果が報じられ、確信犯の意味につき、
(ア) 政治的・宗教的などの信念に基づいて正しいと信じてなされる行為・
   犯罪またはその行為を行う人
(イ) 悪いことだと分かっていながらなされる行為・犯罪またはその行為を
   行う人
という選択肢で、(ア) が正解とされていた。これも不正確である。
 確信犯の議論は、ハンガリーの著名な音楽家リスト・フェレンツのドイツ語名と同名の従弟であるドイツの著名な刑法学者フランツ・リストが19世紀末に「確信に対する忠実」に基づく犯罪は特殊な範疇に属する旨を論じたことに始まると言われている。欧州各国の刑法学者の間で客観的行為と主観的動機とのどちらを以て政治犯を把握するべきかという議論があり、リストは政治に限定することなく主観的動機を論じたのである。確信犯 Überzeugungsverbrechen という言葉は、このような議論を経て、ドイツの著名な刑法学者・法哲学者グスタフ・ラートブルフが20世紀初期に創唱したと言われており、その頃から一般的に承認されていた定義は「政治、宗教等の確信に基づいて行われる犯罪」である。
 かかる議論の経緯に鑑みれば、「確信」が単純に「正しいと信じる」に留まるものではないことが判る。自分の確信が現行法と相容れないものであり、自分の行為が現行法によって違法評価されることは判っているが、それでも遂行しなければならない、という義務感を導くものとして提示されていた。「確信に基づいて」という言葉はこのような意味で使用されており、確信犯の概念には一般的定義に明記されていない要素が存在するのである。この点が、しばしば看過されている。
 「私の行為は正しい」と非常識なことを言い張るだけで確信犯と呼ぶ例もままあるが、概して誤用である。「現行法上の違法性の意識」を欠くと、現行法と相容れない確信は違法性の錯誤に他ならず、確信犯の概念から外れる。また、素行不良者が悪い犯罪行為だと判っていながら平気で遂行するのも、確信犯ではない。現行法上の違法性の意識があっても動機の点で「現行法と相容れない確信に基づく義務の遂行」を欠くと、規範意識鈍麻でしかない。
 TV番組のAや文化庁調査の (ア) は、確信犯の一般的定義に近い。しかし、Bの「犯罪」や(イ)の「悪い」は、行為者自身がそのように評価しているという意味なのか、国がそのように評価していることを行為者が知っているという意味なのか、判別し難いが、どちらにしても異なる定義として対置する点に問題がある。行為者自身の評価なら、それは違法性の意識に他ならないから、異なる定義として対置されたAや(ア)は行為者に違法性の意識がないという意味になり、国の評価に関する行為者の認識という要素が欠落して、単なる違法性の錯誤でしかなくなる。国の違法評価に関する行為者の認識を意味するなら、それは確信犯概念の要素であるから、Bも(イ)も誤答ではなく確信犯の説明の一部であることになる。
 このように、TV番組も文花庁調査も、確信犯の一般的定義に沿う意図でAや(ア)を提示したと推測されるが、Bや(イ)を異なる定義として対置したことから、不正確なものになっている。文化庁調査には更に(ウ)として「(ア) と (イ) の両方」という選択肢があり、「両方」の意味が判然としないが、行為者自身の確信と国の評価に対する認識との両方の要素を備えたものという意味に理解することも可能であり、そのように理解するなら、これが正解であることになる。
 確信犯については、「懲役ではなく禁錮」といった処遇方法が主に論じられていたが、刑事政策だけでなく刑法解釈の問題もある。
 責任論において、違法性の意識が規範的障碍の前提とされる。しかし、個々人の規範的障碍は、本人の規範意識に基づいて生じる。つまり、本人が本心から「いけないことだ」と思っていなければ、規範的障碍は生じない。国の正しい法解釈に基づく違法評価を意識することが行為者の規範的障碍に繋がるという論理は、国の評価基準と行為者の評価基準との一致を前提としている。確信犯の場合、評価基準が異なっているから、現行法上の違法性を意識しても行為者自身の規範的障碍にならないことがある。それ故に、「今ある法」に違反するが「あるべき法」に適合すると確信している行為者について、規範的障碍にならない現行法上の違法性の意識が責任非難の根拠たり得るのか、責任非難の根拠としての違法性の意識やその可能性があると認め得るのか、また、現行法上の違法行為を義務付けられていると確信している行為者に適法行為の期待可能性があるのか、という問題が提起されることになる。
 議論の内容を含めて、正しい理解の普及を念願する。

・代理処罰
 これも刑法の話である。日本で罪を犯した外国人が逃亡して自国に帰国した場合、捜査情報が日本から犯人の自国に提供されて犯人が犯人の自国で処罰されることがある。これを「代理処罰」と呼ぶ例があるが、語義としておかしい。
 「代理」の語義に基づけば、犯人の自国での処罰は外国が日本の刑罰権を日本に代って日本のために行使するものであることになる。それは違う。日本刑法2条〜4条の2のような国外犯処罰規定は他の国にもあり、この処罰は当該外国がその国の国外犯処罰規定に基づいてその国の刑罰権を行使するものである。日本法に基づく日本の刑罰権とは関係ない。日本法上の犯罪でも、当該外国では罪にならない場合や当該外国の国外犯処罰対象でない場合には、当該外国での処罰はあり得ない。冒頭設例は、あくまで「その国自身」の「国外犯処罰」であり、凡そ「代理」ではない。これを「代理」と呼ぶのは、国家主権に対する冒瀆にもなりかねない不穏当な用語である。
 また、「代理」であるなら、当該外国での処罰により日本の刑罰権は行使済になるから、その犯人を日本で更に処罰することはできないことになる。外国で確定裁判を受けた者を同一行為について更に日本で処罰することを許容する日本刑法5条と矛盾する。
 このように、「代理処罰」という言葉は、制度の内容と甚だしく齟齬している。法を学んでいる者が使ってはいけない。「代理」という言葉を鵜呑みにすると、短答試験で誤答に陥る危険もある。
 更に言えば、この誤謬は、刑罰を被害者のための制度だと考える誤解に起因すると推測できる。日本国内で犯された罪の被害者は、日本国民であることが多い。それ故に、当該事件に対する外国での処罰は日本国民あるいは日本のために行われるものだ、という錯覚が生じ、「代理」という表現になる。この点でも、極めて不適切な言葉である。
 誰がこんなおかしな言葉を発明したのか、冒頭設例と逆に日本国民の国外犯に対する日本での処罰にも同じ言葉を使うのか、駄文筆者は知らないが、いずれにしても直ちに止めて頂きたい誤謬である。

Posted by AGU-LS at 15時29分

2017年01月11日(水)

忘れられたままの被害者

                    愛知学院大学教授 (刑事法) 原田 保

 司法試験で出題されることはないだろうが、軽視できない法律問題だと考え、また駄文を書く。一部は、拙稿以外にも既に指摘がある。

[序]
 かつて「忘れられた」存在であった被害者の権利が今は強く主張されているが、問題が多々ある。駄文筆者は過去のブログで若干の私見を述べたが、今回は「依然として忘れられている被害者」について述べる。それは、幾度か述べた犯人死亡事件被害者の他に、職権濫用事件被害者、不当に軽微な罪で起訴された事件の被害者、そして冤罪被害者である。
 責任阻却無罪事件も犯人未検挙事件も、犯人処罰が行われない点では犯人死亡事件と同様であるが、ここには掲げない。前者では特定された犯人への対応が論じられ、後者では捜査が継続されていて、どちらも忘れられているとは評し難い。前者は責任阻却規定への批判、後者は公訴時効規定への批判、という問題を内包しており、別の検討を要する。

[1] 犯人死亡事件被害者
 これは、被害者の権利を専ら刑罰・刑事司法の中だけで論じるという方法が不適切であることを、典型的に示している。被害者の権利が犯人処罰であるなら、犯人が死亡すると被害者には何の権利もないことになる。民事の損害賠償も同様である。それはおかしい、という主張がどうして大きな声にならないのか、駄文筆者には全く理解できない。犯人死亡事件の被害者は、完全に忘れられているようにしか見えない。
 被害者の権利は、被害があれば直ちに論じられるべきであり、犯人への責任追及を前提条件とするものであってはならない。犯人死亡事件の被害者も、犯罪被害者としての権利を保障されるべき地位にある。だから、犯人への責任追及とは別の制度を要する。犯罪被害者等給付金だけでは決して完了しない。詳細は過去のブログで述べたので、反復しない。

[2] 職権濫用事件被害者
 厳密に言えば、警察官による職権濫用や暴行陵虐の事件で警察当局が当該警察官の無罪を主張している場合の被害者である。警察庁も各都道府県警察も警察が犯罪被害者支援を行う旨を表明しているが、このような被害者に対して、警察は支援を行うどころか逆に敵対することがある。
 警察当局が犯罪不成立と判断した場合、警察当局の見解によれば犯罪被害者は存在しない。故に、警察による犯罪被害者支援の対象にならない。犯罪成立の主張は、不当な言いがかりでしかない。
 勿論、本当に職権濫用罪不成立という事案も多々ある。しかし、そうであっても、警察が組織を挙げて被疑者・被告人の弁護団になることは、現行法の諸規定に反する違法行為である。そして、職権濫用罪成立の嫌疑が濃厚な事案で警察当局が当該警察官に対して合理性を欠く擁護に徹した事例は、現に存在する。準起訴決定を経て有罪が確定した警察官の事案について、警察当局が如何に不当な対応をしていたかを詳細に述べた書籍や論文も存在する。
 一般的犯罪で「被害者の味方」を標榜する警察が、警察官職権濫用事件では時として「被害者の敵」になって再度の被害を与える。この事実を看過してはならない。このような事件では、警察による被害者支援を期待することができない。故に、公的な制度としての被害者支援を専ら警察に委ねるという方法では、全く対応できない。被害者支援の重大な欠落点である。この問題に関する議論が乏しいという現状は、職権濫用事件被害者を無視あるいは失念しているとしか評し得ない。

[3] 不当軽微起訴事件被害者
 駄文筆者は「被害者の権利=犯人処罰」ではない旨を幾度も述べているが、犯人処罰に関する意見表明が被害者の権利に属することを否定する趣旨ではない。ここでは、そのような意見表明が封じられている場面の存在を指摘し、犯人処罰に関する被害者の権利ですら必ずしも保障されてはいない旨を述べる。
 例えば被害者遺族が殺人罪成立と考えている事件について、検察官が不起訴処分を行った場合には、遺族は「殺人罪成立・起訴相当」を主張して検察審査請求を行うことができる。職権濫用事件なら、準起訴請求という方法もある。
 ところが、当該事件を検察官が傷害致死罪や過失致死罪で起訴したら、「殺人罪成立」という主張の制度的機会が失われる。検察審査制度も準起訴制度も検察官の「不起訴処分」を前提としているから、如何に不当に軽微な罪を掲げていても、検察官が起訴した事件はこれらの制度の対象にならない。検察官の判断は間違っていると主張して別の機関の判断を求める制度はない。
 勿論、検察官の判断が正しいことも珍しくはない。しかし、被害者や遺族が違う意見を持っているなら、それを主張する機会を認めなければ被害者の権利を保障することにならない。
 そして、検察官の判断が不当である場合の問題は、被害者の権利に留まらない。当該事件で裁判所が「殺人罪成立」という心証を形成しても、検察官が傷害致死罪や過失致死罪の訴因を維持する限り、殺人罪成立の認定は不可能である。検察官の恣意が明白であっても、是正手段はない。刑事司法制度の重大な欠落点である。
 更に、刑事被告事件における被害者の地位についても、同様の問題がある。被害者保護を標榜する立法の一環として刑事被告事件への被害者参加が刑事訴訟法に規定されたが、被害者の参加も発言も全面的に検察官経由という内容であり、検察官は被害者の申出を裁判所に通知する際に「不相当」という意見を付することもできる。被害者を「検察官側」に位置付ける制度であり、被害者自身の判断で参加・発言して裁判所の判断を求める権利は保障されていない。駄文筆者の私見によれば、このような制度で保障されているのは「被害者を利用する検察官の権利」であって「被害者の権利」ではない。
 これらの点については従来から批判があり、被害者の訴因提出権や私人訴追という立法論も主張されている。しかし、依然として大きな声にはなっておらず、改善の動向は認められない。
 そして、不当に軽微な起訴は、暇な学者の考える教室設例ではなく、実例が現に存在する。日本の刑事司法における深刻な現実的問題であるにも拘らず、放置されている。不当軽微起訴事件被害者は、忘れられたままになっている。

[4] 冤罪被害者
 冤罪問題自体は頻繁に議論されており、決して忘れられてはいない。ここで指摘するのは、雪冤後の対処に関する欠落点である。冤罪に関する議論は再審開始決定や無罪認定の獲得に集中しており、その後の対処については驚愕する程に議論が乏しい。
 再審無罪として著名な事件を挙げると、「弘前大学教授夫人殺し事件」では罰金5000円、「免田事件」では懲役6月、という刑が、再審公判で宣告されている。知らない人もいるようだが、冤罪部分に関する無罪宣告と共に、原審で併合審理されていた余罪に関して再度の有罪認定・刑宣告が行われたのである。このような事例はままある。二重問責という憲法問題を生じる筈であるのに、十分に対応できる議論は見当たらない。
 そして、無罪認定が得られた後の問題もある。多くの場合、冤罪被害者は生活手段を失っている。それにも拘らず、爾後の生活に関する支援制度は存在しない。刑事補償が得られても、それで済む問題ではない。真実の犯罪者に対しては刑務所から釈放された後の各種支援制度が一応存在するのに、犯罪者ではなかった冤罪被害者はこの制度の対象にならない。犯罪者ではなかったことが確認されたら、その後は自己責任に帰せられるのである。
 しかし、冤罪被害者の生活を再建することは、それを誤って破壊してしまった国の責任でなければおかしい。私人による支援が行われることを前提としても、国の制度がほぼ不存在であることに合理的理由はあり得ない。冤罪は刑罰制度の必然的リスクだから、雪冤後の対処が不十分なままでは刑事法体系として完結しない。刑事補償の金額すら、現在の金額が規定されてから約四半世紀に亘って放置されたままである。これらの点に関する議論が乏しいことも、被害者を失念していると評し得る。

[結]
 かつて昭和60年 (1985年) に「国連被害者人権宣言」が採択され、そこに掲げられていたのは「犯罪および権力濫用」の被害者である。しかし、日本では「権力濫用」の部分が無視されたままである。一般的犯罪の被害者についても、被害者自身の権利自体として保障するという発想が乏しく、警察・検察の権力に従属するものでしかない。
 現在の日本では、被害者が復権を遂げたとは絶対に言えない。依然として忘れられたままの被害者が現に存在する。この事実に対する認識が普及して十分に議論され、適切な支援策が講じられることを期待したい。

Posted by AGU-LS at 15時16分

過去の記事へ

ページのトップへ ページのトップへ

RSS1.0
powered by a-blog

Copyright (C) Aichi Gakuin University All rights reserved.